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1987.5.30 Letter to the Parents 30 「大きな愛 −1987年度入学式式辞−」 校長 斎藤 和明

 新入生の皆さん、入学おめでとう。入学式は英語でmatriculationといいます。この単語はmatrixから派生し、マトリックスはmaterから出た言葉です。マーテルが母、マトリックスは「母体、母型」などを意味してます。そこでマトリキュレイションには「母といっしょになる、母体をもつ、原簿に登録されること」という意味が含まれています。母校もアルマ・マーテルといわれます。アルマは「愛する」マーテル、またはマーターは「母」です。今日あなた方は、国際基督教大学高等学校という、あなた方の母校となる学校に入学しました。あなた方は、この学校の原簿に登録されたということになります。  この学校は国際基督教大学と同じ理想をかかげております。そのため多くの大学関係者があなた方の前途を祝福するためこの式を見守って下さってます。また母として親として、あなた方の保護者としてあなた方の成長を願ってこられた身近な方々も出席されてます。これらの方々の期待に応える高校生活を送っていただきたいと、私は祈っています。
 あなた方がいま生徒として原簿に登録されることになった「原簿」とはどういうものでしょうか。この高等学校はどのような理想を、大学とともに、かかげているのでしょうか。そのことをここでお話ししておきたいと存じます。その理想とは、平和を作り出すという理想であります。国際基督教大学という大学が創立されたとき、平和をつくり築き上げることが困難で不可能に思えました。そう考える者が多かった。それほど世界の情勢は平和とはほど遠かったのです。そのような時代に、アメリカと日本を中心にして世界のキリスト教徒が力を合わせて建てたのが国際基督教大学でした。アメリカではヴァージニアのリッチモンドにある長老派教会のマクリーン牧師が募金運動のきっかけをつくりました。マクリーン牧師が大学開学時に寄付された桜の苗木が成長して教会堂へ向かう並木を形づくっています。
  それでこの桜並木は、私たち一人ひとりが平和を生む努力をするように、世界の人びとを自分の兄弟姉妹であると考え平和を作り出すように、と私たちに語りかけているようであります。
  ところで地球上の平和を願うならば、平和の理想の基盤になっているものを見つめなければならないと思います。それは愛です。深い愛の心です。自分だけが大切だ、自分だけがよければよい、自分は健康でいたい他人はどうなってもかまわない、自分は得をしたい他人は損をしてもかまわない、という自分中心の安っぽい自己愛から、他者のために役立とうとする、他者への関心を持ち愛し、自分以外の人への思いやり、という他者への愛へと、愛を深めてほしいと願っています。ただあの人は頭がよいから、格好がいいから好きだという安っぽい愛ではなく、この世の最も苦しんでいる人を好きになるという深く大きな愛の心をもつように成長していただきたい。高校生活三年間のうちに、深い愛に目覚めること、これが皆さんへの私たちの期待です。皆さんの愛をちっぽけなものから大きなものへと、これより大きなものはないという愛へと変化させていただきたい、と私は願っています。
  「ヨハネによる福音書」第15章12-17に、これ以上大きな愛はない愛とは、どのような愛をいうのかが教えられています。それは、友のために自分の生命を捨てること、そうキリスト教が教えています。これは容易なことではありません。しかしこれより大きな愛はないという、愛の行き着く所を見定めておきたいものです。最近、大学の石田敏子先生によるPhilip Hallie,Lest Innocent Blood Be Shedの日本語訳『罪なき者の血を流すなかれ』(新地書房)が出版されました。これは第二次世界大戦中フランス南部のル・シャンボンという小さな村での出来事の記録ですが、大きな愛とは何かを知った人びとの行動をつたえた歴史の資料でもあります。当時ドイツ軍はユダヤ人を絶滅させようとしてアウシュヴィッツやダッハウの強制収容所で大量殺人を行なっていました。ガス室で組織的に殺されたユダヤ人の数は600万人にのぼります。多くのユダヤ人がフランスヘ逃げてきました。難民たちはフランスでも逮捕されます。それで南フランスのル・シャンボンヘ行けば助けてもらえるという噂を聞いて知ってます。ぞくぞくと南フランスヘ亡命者たちが逃げて行きます。しかしドイツ軍もその手先きである政府もきびしく取り締ります。ユダヤ人をかくまった者は死刑になるのです。派手なレジスタンス運動ではないにしても、ル・シャンボンの村人は、自分の生命をかばうよりも、弱っている人びとを助けるほうを選んだのです。いま最も苦しみ弱っている、人びとからきらわれているユダヤ人を助けつづけたのです。
 この難民救助活動のきっかけには2万8千人のユダヤ人がパリで一斉検挙されたということがありました。彼らは数日後アウシュヴィッツヘ送られます。その中に4,051人の子どもも含まれていました。ガス室に入れられる行列を目撃したある人の手記にこうあります。「列の先頭に母親と少女がいた。『お母さま暗いわ、ほんとに暗いわ。ほんとにいい子にしてたのに、どうしてなの……』という少女の声が聞こえた」ガス室では総計約100万人のユダヤ人の子どもが殺されました。
 この村の活動の指揮をしたのが村の長老派教会のトロクメ牧師でした。村人はこの指導者の人格と思想につよく影響されます。初め勇気をもてなかった者が、尊敬する牧師の愛を真似るようになります。
 初期のころにこんな話があります。ある土曜の夜バス数台と警察署長をのせた車が村の広場にきました。ユダヤ人が村にかくまわれているという情報をもとにユダヤ人を捕えにきたのです。トロクメ牧師は村の連絡網をつかって、ユダヤ人を森へ誘導します。百名ほどかくれていたユダヤ人は全員森の中にかくれます。翌日の日曜日、村人が礼拝に出席し留守にしている家を捜索します。翌日も探し、たった一名のオーストリアから逃げてきた難民がつかまりました。広場を村人が通りすぎるときこの逮捕者にほほえみかけチョコレートのような菓子などを差し入れます。それで彼のわきに差し入れの山ができました。何台かのバスは空のまま、一台は見張りの警官とこのオーストリア人一人をのせて戻って行きました。この人ものちに釈放されます。ユダヤ人でないと判断されたからでした。
 トロクメ牧師を動かしていたものは、弱い者が苦しめられるのを放っておけないという愛の心です。この愛が村人を動かしたのです。村人たちの愛の力はやがて取り締る側の人びとの心をも動かします。官憲の態度に変化が示されてきたと書かれています。
 罪なくして苦しめられている、力弱い人びとを助けることには、こちらの生命の危険がともなうことがあります。その危険のため勇気をもって人びとを助けられないこともあります。しかし、人間らしく生きるということは、この勇気をもって苦しんでいる人を助けたいという願いをもちつづけることであります。トロクメ牧師のような勇気ある、大きな愛の心をもった人が私たちのための模範になってくれています。私たちが恐怖を感じ不安を抱くとき、力が弱いとき、そういう時だからかえって、大きな愛を目標にして生きたいという願いをもちつづけたいものです。その願いがあるとき、たとえ私たちが不安であり恐れているにしても、キリストが「あなたは私の友である」と語りかけて下さる、私たちが弱っているとき大きな力づよい励ましを力を与えて下さるのだと思います。私たちは、不安であり恐れていても弱っていても、キリストに選ばれているのです。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだのである」(15:16)と記されてます。どうかこれからの三年間、あなた方が選ばれて入学したこの高校生活をとおして大きな愛を学びとるように。そしてこの高校があなた方一人ひとりにとって心から誇りに思う、愛すことができる母校となるような生活を送って下さい。そのための、新入生諸君の今日の門出を祝福いたします。おめでとう。

 

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