ICU高校の生徒宣誓の用紙が皆さんに配られました。内容について考えてみる余裕は今はあまりないかも知れませんが、自由な学校という話を聴いたすぐ後に、世界人権宣言を守り、法を尊び、校則規則に従います、なんて宣誓させられる、何だかだまされているようだ、と思った人も少しいると思います。なぜ自由な学校と言われる学校で、規則を守ることを誓うなんて言うのか。自由も大事だけどケジメも必要だ、遊ぶ時には遊び、きちんとすべきときにはきちんとする、というような意味ではありません。規則を守ることがイコール自由を守ることになるというのが、この宣誓の意味です。
世界人権宣言は1948年に国連で作られました。去年で50年になります。全部で30条あって、生徒手帳にも載っているので、あとで余裕ができたらみてください。そのときは30条の条文をみる前に必ず前文を読んでください。前文には、なぜこの世界人権宣言というものが作られたのか、作られねばならなかったのか、その理由が書いてあります。簡単に言ってしまうと、第2次世界大戦であまりにも残酷なことが行われたこと-ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺など-が直接のきっかけになっています。言ってみれば、血みどろになった手を洗いながら考えて作ったのが世界人権宣言です。「人権」という考え方は200年以上昔からあったのですが、それはとても軽く見られていた、と前文には書いてあります。人には人権があるんだぞ、人権は大事なんだぞ、といくら言ったところで、そんなものを認めない人の前では何の意味もなかったのです。だから今度はそんなことが起こらないように、人権は守られなければいけないという、世界中の誰もが守らねばならないルールを作ろう、というわけで世界人権宣言が作られ、それにもとづいていろんな人権に関する条約が作られ、条約を結んだ国々の法律が変えられてきた、というのがこの50年の歴史です。
前文に「法の支配」ということばがありますが、それは、偉い人、強い人が自分の言うことを弱い立場の人たちに守らせようとしてルールを作る、という日本の常識とは全然違います。逆に、力の強い人たちに勝手なことをさせないためにルールが作られたのです。おもしろい事実がひとつあります。世界人権宣言はアメリカの人が中心になって作られたそうですが、そのあとの人権に関するさまざまな条約を、アメリカという国はあんまり認めていません。皆さんも知っている有名な子どもの権利条約も認めていません。それはアメリカという国がそんな条約に縛られるのをいやがっているからです。
ICU高校はキリスト教主義の学校です。聖書には「人権」なんていうことばはひとつも出てきません。人権は、それ自体は絶対的なものでも、永遠不変のものでもなく、つきつめれば何の根拠も持たないものです。世界人権宣言は、英語を直訳すれば、「人間の権利の普遍的な宣言」です。この「普遍的」ということの意味は、絶対にして神聖不可侵という意味ではなく、みんなで合意した、みんなで約束した、だから、いつでもどこでも誰でも守らねばならない、という意味です。現実には、まだ世界中のみんなで合意「した」というところまで行っていないでしょう。これから合意をつくってゆく、ということが平和をつくりだすということにつながる、と私は考えています。聖書には、平和をつくりだす人たちは幸せだ、ということばがあります。ICU高校が世界人権宣言の精神に立つということの根拠はここにあります。この宣誓はクリスチャンにとっては冒険であり、挑戦です。この世から超越してクリスチャンであるのではなく、この世の風と波の中でもがき続けることを選び取る、という宣誓だからです。
最後にひとことだけ、ICU高校生はどちらかと言うと、これから将来強い力を持つ立場に立つ可能性を持つ人たちだと思います。力の強い人がルールを守らなければ、その人だけがやりたい放題です。今、「自由」は、力とモノを持っている人たちが、自分たちがそのままでいるために行使するものに、ますますなってきています。そんな自由がICU高校の自由だとしたら、そんな学校は存在しない方が世の中のためというものです。自由とは何でしょうか。「自由とは、何も失うものがないということ」という考えもあります。ルールを守ることを通して自由の意味を考える。とりあえずの宿題です。