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1992.5.30 えいれーねー 50号 「喜び (ランチ・タイム・プレーヤーミーティングより)」 キリスト教科 有馬 平吉

 イヤイヤやっていることは、勉強でもスポーツでもなかなか身につきません。しかし自分の好きなことであれば、それは勉強やスポーツに限らず何であってもどんどん身につくばかりでなく、自分からすすんでどんどんやるものです。
 体の疲れさえとれればまたすぐにやりたくなるしそれが楽しく仕方がない。
 このことは、クリスチャンの信仰の問題においても、きわめて大きな示唆を与えるものです。
 クリスチャンとは何か?それは<喜びによって生きる人>だと言っていいでしょう。それまでの神を信奉する人たち(=ユダヤ教の人たち)は、行い(律法)によって神の前に義とされようとして努力してきた人たちでした。しかし、キリストがあらわれるに及んで、このキリストの十字架によるあがないを信じ受け入れることによって神の前に義とされる「信仰義認」の道が開かれたのです(ローマ人への手紙3章21節~、他)。
 行い(律法)によって神の前に義とされようとした人々にとって、それは真剣な努力の道ではあったことでしょう。
 しかし、それはどうしても自分の心の外側に文字として書かれてある「律法」という「戒め」を強い義務感と責任感とでイヤイヤ守っていくしかなかったことでしょう。
 このことは、「律法」が結局「律法主義」になっていってしまった経過に示されています。
ところがどうでしょう。私たちがイエス・キリストを信じるというのは、単にその歴史的存在を認めるなどということではなく、またその教えもなかなかいいことを言っているから自分の考えの中に取り入れていこうなどということでもなく、その御自身の命まで捨てて私たちが信じ受け入れることなのです。
 それは、キリストを外側から見ることではなく、内側から受け入れ(入れられ)その命の内にとび込んだのと言っていいでしょう。
 不思議なことに、キリストをこのように信じた者には神は永遠の命を与えてくださいます。『神は、実にそのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ福者書3章16節)』
 イヤイヤ神に従うのではなく、人は信仰によってこの神のいのちの中に入れられるのであり、それのもたらす「喜び」によって神に従うのです。
 そしてその人の行いもまた、義務感や責任感からではなく、「喜び」によって、内側からつき動かされて自然に行われるようになるのです。
 聖書の中には「喜び」という語がたくさん出てきます。よく演劇をする時、泣く真似は比較的簡単だが、笑うのはむずかしいと言われます。
 本当に可笑しくもないのに何度も笑う真似をするのはとても大変なことです。
 つまり、「喜び」は演技や芝居をして持つものではないし、本当の「喜び」はそのようにしては出てこないのです。本当の「喜び」は内面から湧き上がってくるもののはずです。
 本当に面白くもないのに笑ったり、偽善的な笑顔を作っていると「歯ぐきが乾わいてくる」と冗談を言っている人がいましたが、本当に起こりえそうなことです。
 聖書が何度も「喜びなさい」と言っているのは、「喜び」の演技や芝居をしなさいと勧めているのでしょうか。そうではありません。
 イエス・キリストを信じた者には「喜び」が必ず内から与えられてくるのです。内側から湧き上がってくるこの「喜び」によって生きる-これこそが真のクリスチャンの姿なのです。
 『(あなたは)栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。(第一ペテロ1章8節)』
 『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ 4章4節)』

 

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